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スーパーカー
ご挨拶周りにクルマで国道をダラダラと流していたところ、後ろからものすごい速度で追い抜く黄色いスポーツカー。
後ろを見ると結構古いデザインなので、古いフェラーリかランボルギーニ?と思ったのですが、信号待ちで並んでみると、リアフードから聞こえてくるのはV8特有のエンジン音とキャブNAの吸気音。
そして欧州車ではありえないバカでっかいタイヤ。

デ・トマソ・パンテーラキタワァ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。..。.:*・゜゚・* !!!!

タイヤの大きさから見てハイモデルのGTSだったのですが、コンビニで止まった時、仕事途中にもかかわらず不躾ながらお話を聞かせてもらっちゃいました。
写真は勘弁して欲しいといわれたので残念でしたが、コックピットに座らせてもらったところ、200マイルまで目盛ったスピードメーターや10回転刻みのタコメータ、スポーツカー特有のギアボックス。非常に見切りの悪いボディなどはまさに80’sスーパーカー。
70~80年代のスーパーカーブームだった時代、ランボルギーニLP500やフェラーリ308GTBシリーズなどに混ざって、ひときわ異色を放っていた存在でしたが、エンスーの人達に言わせるとパンテーラはスーパーカーではないのだそうです。
なぜならば、フェラーリやランボルギーニは「イタリア製の自社エンジン」を搭載してるのですが、パンテーラはフォードのV8エンジン。
結果として、アメリカではフォードブランドで販売され、どちらかというとアメリカ生まれのドラッグレース車としてのイメージになってしまったのでしょう。

しかし心を呼び覚ますには十分なインパクトでした。
少年時代をにときめいたスーパーカーブーム、ラジコンやプラモデルでもいいので一台欲しいと思ってしまいました・・・
とあるブログの方はワーゲン買ったっていうし・・・

仕事中にもかかわらず見せていただいたオーナーの方、今日は本当にありがとうございました。

↓伝説のパンテーラのお話。興味のある方はどうぞ。
700馬力V8の怪物、パンテーラの悪夢
本物のV型八気筒をパンテーラに乗せ、公道を時速200マイルで走ってみたい。死に到るチューニングカーの物語

パンテーラはアスファルトにうずくまり、じっと何かを凝視していた。
ドッ、ドッ、ドッ、
700馬力の鼓動が冷たい夜気をなぶる。
血のような赤いボディーは、狂気な匂いがした。
「乗れよ」
トリプルプレートのレーシングクラッチが繋がると エンジンがウッと息絶える。が、 驚いた事に7700ccは自分の力で呼吸を取り戻し 車を発進させた。アクセルペダルの一撃が入る。
僕は助手席の背もたれの上に叩きのめされ、そのまま 身動きできなくなった。
音を立てて血の気が引いていく。
息さえも止めていたと思う。
なんという加速!2秒・・3秒・・・。
ふっつりと加速がやむ。眼球をすばやくめぐらせて
薄緑色の証明の中に浮かび上がっているスピードメーター を盗み見る。120だ。
ローギアの一瞬で120!ジャッ、ガッ。 セカンドギアの加速が始まると再び猛烈なGに襟首をひっつかまれてボクは昏倒する。・・・・そんなことはありえなかった。
それは1981年11月29日のことで、彼はその2車線の一般道で本物の 700馬力が放つ本物の暴力たっぷり教えてくれたのだった。公道上の時速250キロ。頭上を行く首都高速3号線の高架が視界に突き刺さって 来るようなスピードだった。

東名厚木ー用賀6分20秒!?
彼のの名をゲーリー・アラン・光永という。
スピードに取り憑かれていた。
ハワイで生まれ大学を卒業して日本の地を初めて踏むと、持ち前の語学力を生かして小さな商事会社に就職した。走り出したのはその頃だ。
GI相手に基地の滑走路でゼロヨンを挑んだ。負けると意地になって車をいじり馬力を上げる。
打ち負かす相手がいなくなると基地の外に出て行くようになった。
当然車もエスカレートしていき、収入の大半がそこに消える。
群れるのが嫌いな一匹狼だったが、40歳を越えると年下の仲間達もできるようになった。青山3丁目にエンドレスと言う名の喫茶店がある。8時を回ると何処からともなく低い車高のさまざまな車達が集い、零時を過ぎると野太い排気音を響かせてどこかへ去っていく。
目的地は東名高速道路海老名サービスエリア、厚木インターチェンジで下り線をいったん降り、すぐUターンして上り線側のパーキングにくつわを並べる。時には40台にもなった。
そこから東京料金所に至る27キロをアクセル全開で競うのだ。
一番速いクルマが一番速くゴールにつく。「コースレコード」は6分20秒。平均速度255キロである。だが光永のフェアレディZは一度も先頭を走る事ができなかった。

 マリオ・ロッシとの直談判
アメリカのレース雑誌に紹介されていた小さな記事を頼りに、光永はアメリカ西海岸を訪れた。そこにはNASCAR(ナショナルストックカーレーシング協会)とNHRA(ナショナルホットロッド協会)というアメリカ二大レースで名を知られた名エンジンチューナーがいた。
マリオ・ロッシという。
光永は小柄なイタリア人にこう切り出した。
「V型8気筒を一台、作ってほしい。それをパンテーラに載せ公道を時速200マイルで走ってみたい」
かつて世界でもっとも強力だった市販エンジンとは、大排気量のアメリカ製V型8気筒ーアメリカンV8-だった。50年代の繁栄はアメリカ車をより大きく豪華に彩らせ、それとともにアメリカンV8も排気量を次々に拡大して高めていった。
その頂点が訪れたのは、皮肉にもマスキー上院議員が自動車の安全問題で世論を沸かせ、平和主義団体によって地球環境保護が叫ばれるようになった60年代終わり頃のことだ。排気量7400cc
430馬力などという怪物エンジンが市販のスペシャリティーカーに堂々と搭載され加速性能を競い合ったのである。これらのクルマは人気の的だった。
売れればコストが下がる。アメリカンV8は世界でもっとも廉価で手に入る高性能エンジンになった。それを購入して載せれば廉価なスーパースポーツがたちどころにできる。
フォード製5・7リッター350馬力エンジンを搭載したイタリアの「パンテーラ」もそういう伊米混血車である。光永はパンテーラを自分の夢を実現する母体に選んだ。

公道上で200マイル。東名を走るうちに芽生えた途方もない夢である。
だがパンテーラの5・7リッター350馬力では力不足だった。光永の
計算ではパンテーラを時速200マイルで走らせるには700馬力の
パワーが必要だった。シボレー製7リッター級V8をさらにチューニングした
エンジンにそっくり交換することによって光永はそれを得ようと考えたのである。

 アメリカで最高のコンロッドとクランクシャフト
「700馬力のV8」を作るのは、アメリカに星の数ほどあるV8チューニングショップに依頼すればじつに「簡単」な事である。そいつはこんな具合だ。
「シボレーのビッグV8から700馬力だって?俺にまかせとけって。エンジンを一度バラして」ブループリント(部品のバランス取り)して、メーカー純正のレース用ヘッドをつけて圧縮比を11.5にする。○○のカムと△△のコンロッド ××のピストンを使ってああしてこうすりゃあ・・・ま、ざっと700馬力は
いっちまうだろうな。
そいつをパンテーラに載っけて時速200マイルでフリーウェイをぶっ飛ばすって!?ユーは気でも狂ってるのかい。そんなことしたらポリスに首をぶち抜かれる前に背中のエンジンが木っ端微塵に吹っ飛んじまう」
巨大なアメリカンV8は、2000回転程度の低い回転数でもすさまじい力を放ちわずか5000回転で最高出力をだす。瞬発力、加速力では敵無しだ。
ところが最高速度に近い速度を出してもものの数分も走ると、エンジンオイルの
温度が急上昇し、油圧が低下してしまう傾向がある。それに気がつかないで(アメリカ車にはたいてい油温計、油圧計が無い)アクセルペダルをふみ続けていれば、エンジンの軸受け、クランクシャフトのメインベアリングの焼損という重大なトラブルに陥る。
大きな排気量は大きな力を生む。その大きさと重さが連続負荷高回転の運転では己の首を絞める。
並みのチューナーでは駄目なのだ。並みのパーツでも駄目なのだ。
レース用の、本物の特別製の700馬力V8でなければ。光永はその結論をたずさえてマリオ・ロッシの工場にいきついたのだった。
だがロッシは、はるばる日本からやってきた光永をケンもホロロに追い返す。
「公道を200マイルで走る?ここは精神分析医じゃないいんだぞ」
アメリカには日本の何倍もに及ぶありとあらゆる分野のスーパースペシャリストというべき人種がいるが、烏合の衆たる無知なる大量の衆の数も日本の10倍だ。プロはごく自然に排他的になる。クルマの世界も同じだ。
つい最近まで、全米最大のカーレース「インディアナポリス500マイル」ではパドックの中に女性を決して踏み入れさせなかった。ロッシの対応も当然の事だろう。
その日から光永はロッシのガレージの前で寝起きするようになる。
間単に作ってもらえるなどと最初から考えていない。ロッシが再び声をかけてくれたのは4日目の朝の事だという。
「お前、何処から来たんだ」「日本」「英語達者だな」「ハワイで生まれた」
「そんなにエンジンが欲しいのか」「パンテーラで時速200マイルだしたい」
「トーランスにカレロという奴が住んでいる。アメリカで最高のコンロッドを作る男だ。ハンティントン・ビーチのハンク・ザ・クランクをしっているか?
アメリカ最高のクランクシャフトはあそこにしかない。俺はその二つがそろわないとエンジンは作らない」
「今すぐ行って買ってくる」
「OK。待ってるよ」
光永はきびすを返してクルマに乗り込み、500キロ離れたトーランスに向かった。
カレロは古い倉庫の一角を間借りしてコンロッドを作っていた。
「ロッシの紹介?聞いてない。お前に売るコンロッドはない。どこかそこらのショップにでもいけ。コンロッドなんか何処にでも転がっているだろう」
ハンティントン・ビーチのハンク・ザ・クランクは光永に会ってもくれなかった。
何度訪ねてもぴしゃりと閉じられた入り口のシャッターは1インチも開かなかった。

光永が8本のコンロッドと重いクランクシャフトをたずさえて、再びマリオ・ロッシの所に戻ったのは半年後の事である。
ロッシは光永が床に置いたパーツを見て目を丸くして驚いた。
「本当に買ってきたのか?あのハンクのクソ親父が本当にシャフトを売ったのか?」
光永はうなずいた。
「お前が気に入ったよ。作ってやる。お前が今まで見たことも無いようなV8を一基、組んでやる。本物の700馬力がどういうエンジンか見せてやろう」
ロッシは、アメリカンV8チューンの要点は第一に素材と素性、第二にバランス、第三に組み立て、そして最後に仕様=スペックだと主張している。
ロッシが使うのはシボレーが70年に発売した「454CID」V8である。市販車用のLS1からマッスルカー用のLS5、最強のLS5の出力が430馬力だ。だがシボレーはその上にLS6、LS7という特別製のエンジンを用意していた。レース用だ。
1~5のねずみ鋳鉄製ではなく、鉄に炭素、ニッケル、クローム、モリブデンなどを配合した高力合金鋳鉄製である。
LS7の価格はLS5の五倍以上もする。だがロッシにとっては素材に過ぎない。LS7を入手すると、ロッシはパーツを分解し、エンジン本体、ブロックを野外に半年放置しておく。鋳鉄には溶けた鉄が冷えて固まるときのひずみが鋳造後も残っている。残留応力という。それを残したままエンジンを組んで
しまうということはひずみがすこしずつ抜けていくのにしたがって、エンジンがゆがんでいくのを許すのとおんなじだ。ブロックがゆがめば、エンジンは壊れる。
だから放置して応力が抜けるのを待つのだ。
こうして「枯れた」ブロックを精密に機械加工して寸法を整え低圧縮化、低バルブ開度のパーツを組み付けて低出力のエンジンに仕立て、適当なクルマ(自分のステーションワゴン、友達のピックアップ版etc)に載せて、1万キロほど走らせる。死んでいたブロックに熱が加わり、水が流れ、新たな応力が与えられるのだ。
いくら精密に加工してあっても、ここで素材の欠陥を暴露するエンジンは多い。
中には目に見えないような細かいヒビを発生するブロックもある。エンジンを分解すると、そうした欠陥を電磁探傷法や超音波検査法、浸透探傷法などのテストで選別し、素性のランクをつけていく。光永が手にしたのは三番目の等級Cブロックと名ずけられたランクだった。
Aブロックは3000馬力級のホットロッド用エンジンのベースになる。
Bブロックは主に800馬力級のやはりホットロッド用。CランクはNASCARストックカー用だから、要するに700馬力の目標値に対しては十分以上だった。
もう一度機械加工を行った後、ブロックの内側を入念に研磨する。これも応力を一ヶ所に集中させないための工夫だ。組み立てには超一流のパーツしか使わない。
作動パーツはすべて鍛造、一つずつ機械加工、熱処理か表面加工処理を施し、バランス取りをしてあるレース用パーツだ。カレロのコンロッド、ハンク・ザ・クランクのクランクはよく名の知れた超一流品である。価格は、チューニングショップ製や大手メーカー製のチューニングパーツのおおむね10倍から20倍になる。
組み付け自体にもテクニックがある。ボルト締め付けトルク次第で軽く20~50馬力の差が出るという。それはチューナーの秘中のノウハウだ。
巨大なV8は、何も意識せず気楽に作って気楽に組んでも大トルク、大パワーを出す。アメリカンV8が尊敬と同時に軽蔑も一手に集めているのはそのためだろう。
しかしそこからさらに100馬力を引き出して同等の信頼性を与えようとすればその途方もない大きさと重さが障害となって立ちはだかる。200馬力プラスならば高度なノウハウと内燃機関。材料工学に対する経験と知識が必要だ。
7・4リッターのV8から300馬力を出す事は造作もないことだ。
同じ排気量から700馬力とそれを保障する信頼性を得ようとするなら結果的にはそれはフェラーリV型12気筒エンジンより数倍高価な代物になる。頑丈で精密な、土台に、超高精度な部品を載せ、しかるべく締めて固定することによって、ロッシはそれを行う。
「ゲーリー、ユーのエンジンが今日回ったよ。680馬力出た。680馬力だ。パンテーラに載せれば時速200マイルは俺が保障しよう」
国際電話の声が踊っていた。
光永は本物の700馬力をこうしてその手にしたのである。

 時速307.69キロの伝説
1981年11月17日、光永のパンテーラはJARI(日本自動車研究所)高速集回路で最高速度記録に挑んだ。ある雑誌の企画である。それは誰も公認しない記録への挑戦だった。ステアリングを握るのは元日産ワークスドライバー高橋国光。
一対の光電管式速度測定器が置かれた400メートルの区間を、パンテーラは
閃光のように駆け抜けていった。
時速307・69キロ。
その日エンジンは不調だったという。「600馬力って本には書いといてくれよ」光永は嬉しさを隠さずに僕にそういってはにかんでみせた。
だが直線があと1キロあれば光永のパンテーラはおそらくその日に時速322キロ=200マイルに到達していた事だろう。
光永とパンテーラにとって、当日は完成試走のようなものだった。
次のステップは東名である。東名を走りセッティングを煮詰め、翌年の
春にはもう一度テストコース上で時速200マイルに挑む・・・。
それが光永の心に描かれていた計画の第二段階だった事だろう。マシンはついに完成した。試走で実力の片鱗を見た。次は俺が乗って楽しむ番だ・・・・
そう思っていたことだろう。

12日後、11月28日の夜、僕は光永と夕食を共にし、翌日日曜に予定していた雑誌の取材・撮影の打ち合わせをした。
光永のパンテーラの存在が公になるのは、その記事が最初になるはずだった。公認だろうが非公認だろうが、その記録をだした車がナンバープレートをつけた世界最速のスポーツカーであることに変わりは無い。
打ち合わせを終えて外に出ると パンテーラがそこにいた。猛獣は美しかった。光永と彼の友人のメカニックの2年半に及ぶ努力によって、700馬力を収めるエンジンルームはもちろんのこと、足回りや内装、イタリアンレッドの塗装に至るまで完璧にしたれられた
宝石のように輝いていた。
「乗れよ」光永は容赦なく踏んだ。700馬力に鞭が入ると、それはスタートしてから5秒もかからずに120キロに達し、さらに豪然と加速し続けた。
それまでに体験してきたいかなる物事も、その加速の前では単なる子供騙しだと
思った。
「じゃ明日」
青山通りで僕をクルマから降ろすと、光永はそう言ってパンテーラ
と共に走り去り、そして二度と戻ってこなかった。

午前1時40分過ぎ、家路に向かう途中の目黒区目黒通り・大鳥神社交差点の金毘羅坂で、光永の運転するパンテーラは突如コントロールを失い、目黒学園前の歩道橋脇に激突した。
パンテーラは衝撃でくの字に折れ、一瞬にして光永の命を奪った。写真も残してはくれなかったのだ。光永はそのすべてを手にたずさえて逝ってしまった。
「日本人ってのは、どうしてあんなクズみたいなエンジンを喜んで買っていくんだ?」
アメリカのさる有名なレーシングメカニックはそう言う。
「日本てのはゴミ溜めみたいなもんだな。しかし・・・」
ブルーの眼がいっとき遠くを見つめるように細くなる。
「・・・そういえば1基だけスゲエのが行ってるな。ロッシの親父が組んだやつだよ。あの男・・・なんて名前だっけな・・・」
「ゲーリー・アラン・ミツナガ。」
「ゲーリー。そう。日本でも有名なのか?つまりなんていうかその、あの男の話はこっちの仲間内じゃ、要するに伝説みたいなもんなのさ。達者でやっているのかい?」
 あれからもう11年もたってしまった。

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